◇ 1966年 秋
和泉校舎にて『明治大学フォークソング同好会』創立当時、政経学部1年の菅沼 宏氏(元 明大マンドリンクラブ員)の呼びかけで、
倉品正二氏、玉置雄三郎氏や菅 和彦氏の他、クラスの数名が集まり、菅沼 宏氏を中心に歌やギターの練習を行う。
◇ 1967年3月
『明治大学フォークソング同好会』発足。同好会という名称の由来は、当初、大学や学生自治会(文連等)の影響や干渉を受けないようにとの考えがあって付けられたらしい。また、同好会だったために大学からの助成金もなく、会員から部費を集めて運営された。(後の1968年入学組、第3期の方々は和泉校舎内でのデモなどに参加。そうしないと部室が没収されるとの噂あり・・・)
◇ 1967年3月
御殿場にて第1回合宿(10数名足らずの人数)
【活動の基準】
◆当時流行の和製フォークや、外面だけのカッコよさのフォークソングを批判しつつ、自分達の本当に歌いたいものを歌おう!
◇ 1967年4月
新入生(第2期)の加入を迎え、構成員も約30名に。バンド等の活動を開始し、学内で数々の公演を展開。当時はフォークブームの初期であり、和泉校舎のみにて新入生勧誘を行い、相当数が入部。その後、第1期の池田二寿氏や鈴木孝三氏が加わり全体練習や各バンド独自の活動が本格化した。
【和泉校舎学生会館部室の獲得について】
菅沼 宏氏が当時の学生自治会(活動家達が実権を握っていたとか)と交渉し、1967年春より使用することとなった。古くて汚い木造の部室棟入口横にあったこの部屋は、物置同然の小さな空き部屋だったために獲得できたのかも。ただ、部員の居場所としては重宝していた(ライトミュージック研究会の他、音楽関係のクラブは別の広い部室を確保)。
【活動の経緯】
この各段階では、音楽についての意見・フォーク感等々の様々な討論やトラブルを通じて、個々が真剣に対処し、そこから相互の信頼関係が生まれ、独自の状況を作り出してきた。
【活動のルール】
〇 週2度の活動は全体練習を行い、コンダクターを中心に全員が自分の持つ限りの力を発揮して楽しく練習に励む。
〇 バンド活動は毎年、新入生がクラブに慣れ互いに知り合った後、つまり具体的には6月初旬の和泉祭が終わるまで禁止とする。
〇 バンド練習や学外活動は、クラブ活動に支障のないことを原則とする。
〇 その他、我が同好会を特色づけている活動に7つのゼミがユニークな研究活動を行ない、その成果は年2回の合宿時の他に機関誌やゼミ誌等で発表。
【ゼミ活動の目的】
〇 希薄になりがちな1~4年生の縦のつながりを補うため
〇 サークル員の、フォークソングへの研究を活発にするため
【主な活動内容】
〇 夏合宿を経て、秋には駿台祭に参加。
〇 11号館(校舎新築建て替えまで、1階に神田支部の部室として使用)の大教室でコンサート。
〇 音楽評論家の三橋一夫氏による講演も開催。
※「第1回定期演奏会パンフレット“私達の軌跡”」より抜粋

◇ 1967年 秋
「関フォー連」発足に関して、菅沼 宏氏と倉品正二氏が中央大学に出向いて話したところ、中央大学が成城大学に打診し、更に慶応大学へと広がっていった。
◇ 1967年12月
他大学との交流を深め、横のつながりを持つために「関東学生フォークミュージック研究会連盟」の創設に参画した。
◇ 1968年1月
オリジナル曲『戦場の村』が朝日新聞に掲載され、TVにも数回出演。TBSは、和泉校舎の学生会館から、昼のニュース番組として15分間生中継をした。朝日新聞のベトナム戦争ルポ(本多勝一記者筆)に基づくこの曲(作詞:倉品正二氏、作曲:菅沼 宏氏)は、 三橋一夫氏の仲介によるものだった。
◇ 1968年3月
第2回合宿に於いて、年度方針を決定。
◇ 1968年4月
短大1期生の方々も入会されたことにより、会員が約70数名以上に膨れ上がり、入部金等の拠出でドラムセットなどの楽器も増加していった。大人数となったため、神田・和泉・生田に各支部を置き、支部活動も新たに開始した。

学内での活動を地道に行い、その一つ一つの積み重ねを大切にしながら、今日70名以上の会員の力を結集した演奏会を開催するまでに成長してきた。背景にあるのは個人の“自発的活動”であり、それこそが同好会の活動を決定付けるというもの。それがまた文化の一翼をにない得る活動に通じ、ひいては豊かな音楽の一端を切り開いて行くことになるのだと思う。
※「第1回定期演奏会パンフレット“私達の軌跡”」より抜粋
◇ 1969年5月
第1回「関フォー連フーテナニー」を日比谷野外音楽堂で開催し出演
◇ 1969年12月
第1回定期演奏会を開催(御茶ノ水:日仏会館ホールにて)
◇ 1970年6月
西郷輝彦出演 新宿厚生年金大ホール実況録音のレコーディングに参加
◇ 1970年12月
第2回定期演奏会を開催
全員参加による大編成の“シングアウト“を採用。それまでの個々のバンド活動と合わせて、同好会を運営する。この頃には、部員数が一気に増えて「第二次黄金期(第4期から第7期)」を迎える。“木曾節”や“貝殻節”などの曲をアレンジし、『民謡の明治』とも言われた。
◇ 1972年5月
第4回「関フォー連フーテナニー」に出演(日比谷野外音楽堂にて)
※以降、毎年5月の開催時に出演(1998年まで)
この時期に“新入生歓迎コンパ”が催されることが定例化され、この年は四谷で祥平館という旅館の大広間を貸し切りにて、総勢80名余の参加により盛大に開催された。
◇ 1972年12月
第4回定期演奏会を開催(久保講堂にて)
「フォーク夏の陣」を慶応・東洋英和・白百合・とジョイント(目黒公会堂にて)
大妻女子フォークソングクラブとジョイントコンサート(千代田公会堂)
バンマス会議発足 第1回「バンドの集い」(日仏会館ホール)

◇ 1973年
第5回定期演奏会を開催(有楽町:読売ホールにて)
第5回「関フォー連フーテナニー」に出演(日比谷野外音楽堂にて)
世界歌謡祭オープニングコーラスとして男性のみ出演(武道館にて)
「フォーク秋の陣」を慶応とジョイントコンサート(千代田公会堂にて)
◇ 1974年
第6回定期演奏会を開催(有楽町:読売ホールにて)
第6回「関フォー連フーテナニー」に出演(日比谷野外音楽堂にて)
第1回地方公演を開催(高崎音楽センターにて)
◇ 1975年
第7回定期演奏会を開催(有楽町:読売ホールにて)
第7回「関フォー連フーテナニー」に出演(日比谷野外音楽堂にて)
“創立10周年”記念コンサート(御茶ノ水:全電通会館ホールにて)
◇ 1977年
第9回定期演奏会を開催(荻窪:杉並公会堂にて)
第9回「関フォー連フーテナニー」に出演(日比谷野外音楽堂にて)
「慶応・東京家政とジョイントコンサート」

◇ 1978年
第10回定期演奏会を開催(有楽町:読売ホールにて)
第10回「関フォー連フーテナニー」に出演(日比谷野外音楽堂にて)
「世紀の三角関係、とらいあんぐるこんさあと」(法政・白百合とジョイント)
※ 第1期の倉品正二氏が1968年に作詞・作曲した「さようなら」←←←ここをクリック)が、
1978年頃より音楽教科書出版社の教育芸術社に採用され、小中学校の音楽教科書や各種歌集に長年にわたり掲載された。
今でも全国各地の小学校の卒業式で、在校生による卒業生を送る歌として歌われている。
当同好会のコンサートや懇親会等のエンディングナンバーとしても歌い継がれている。
◇ 1979年
第11回定期演奏会を開催
第11回「関フォー連フーテナニー」に出演(日比谷野外音楽堂にて)
「ちちんPUIPUI」(フェリス短期女子とジョイントコンサート)
◇ 1980年
第12回定期演奏会を開催
第12回「関フォー連フーテナニー」に出演(日比谷野外音楽堂にて)
「たこたこあがれ」(慶応・清泉女子・フェリス短期女子とジョイントコンサート)
◇ 1981年
第13回定期演奏会を開催
第13回「関フォー連フーテナニー」に出演(日比谷野外音楽堂にて)
法政・跡見学園女子とジョイントコンサート
◇ 1982年
第14回定期演奏会を開催
第14回「関フォー連フーテナニー」に出演(日比谷野外音楽堂にて)
國學院・関東学院短期女子とジョイントコンサート
◇ 1985年
第17回定期演奏会を開催
第17回「関フォー連フーテナニー」に出演(日比谷野外音楽堂にて)
“創立20周年”記念パーティを開催(御茶ノ水:山の上ホテルにて)
中央・白百合・鶴見女子とジョイントコンサート
◇ 1986年
第18回定期演奏会を開催
第18回「関フォー連フーテナニー」に出演(日比谷野外音楽堂にて)
法政・共立女子とジョイントコンサート
バンドコンサート(御茶ノ水:宮地楽器にて)
◇ 1987年
第19回定期演奏会を開催
第19回「関フォー連フーテナニー」に出演(日比谷野外音楽堂にて)
「関フォー連」主催のダンスパーティ(渋谷ディスコにて)

※ この間、38年に亘り、同好会は 現役生
が継続中!!(管理者が古いOBのため情報不足)
◇ 2025年
6月のジョイントコンサート、定例の12月の定期演奏会をはじめ、バンドコンサートはほぼ毎月実施して元気に活動中!